凡人を全うする

僕にとっては記念すべきブログ投稿1回目だが、僕以外の誰にとってもどうでもいいブログ投稿1回目なので寒い挨拶は無しで始めたい。

薄々感づいていたが、ようやく確信を得たことが一つある。自分は凡人であるということである。特筆すべき能力が何一つないのだ。 

各種メディアを通して僕らはあらゆる天才と接する。現代に限らず教科書に登場する数多の人物からも。接しすぎて自分は凡人であるということに気づかなくなる、これが若さというものなのだろうか。

御多分に洩れず若かった自分は自分のことを天才だと本気で思っていた。

が、その頃の僕は凡人が凡人として時間をかけて工夫をして行動をした結果を出しただけであって誰しもが辿り着ける領域であり、凡人の枠をはみ出しているわけではなかったのである。

時が経ち現在。「自分は凡人」という現実がある。しかし重くのしかかっているわけではない。薄々気づいていたということもあり、そのことに特段ショックはなかった。加えて周りの、いや全世界の人間が凡人または凡人以下であるということにも気づいたから。

 

日本には職人信仰がある。一つのことを地道にやり続けていくことが尊ばれている。多芸は無芸と言われるようにあっちにもこっちにも行く人はよく思われない。僕はこれがどうも疑問に思える。もちろん一つのことを極めている人に私は敬意を表すし、憧れもする。

ただ、一つのことを地道に取り組むことで能力を最大化できるのはほんの一つまみの天才のみなのである。

先にも述べたように世の中の大半は凡人または凡人以下であり、一つのことを極めるなど土台無理な話なのだ。

もちろん凡人または凡人以下が一つのことに取り組んである程度の地位名声金を得ることはできるだろうが、他に自分の能力を最大化できる場所があったのではないだろうかと思ってしまう。凡人は選択肢を狭めずに気になったことを

思いきりやることが凡人としての責務を全うすることなんじゃないかと。

 

作詞家になろうとしていた頃、故阿久悠が書いた作詞家になるための本を読んだ。最初の方のページにある作詞家適正テストの結果が「すべて当てはまっている人が作詞家に向いている」だったことに若干憤りを覚えつつ読み進めていくと、うろ覚えだがこんな記述があった。

「自分はテレビ局の社員で様々な仕事を手がけることができたから作詞という仕事に生かせることができた。一つのこと、例えば爪楊枝を削るような仕事をひたすらやり続けていたとしたらヒット曲はうまれなかっただろう」

本当に爪楊枝を削り続ける仕事があってそれをやり続けている人がいるとすればそれはそれですごいとは思うが、それはさておきこの本を読んだ当時は色々やることが大きなことにつながるということが何か妙に印象に残っていた。現在は作詞家を目指してはいないが、自分が凡人と気づいた今しみじみ感じる。(阿久悠は凡人ではなかっただろうが)

 

つらつらと述べてきたが自分が凡人であると気づけた今、なんだか清々しい。

後は開き直ってやりたいことをやるだけである。さあ野となれ山となれ。