夏の終わりに-稲川淳二と怪談-

夏がもうすぐ終わる。

うだるような暑さは相変わらず続いている中で仄かに涼しさが感じられ、学校生活に戻る子供たちがちらほら出てくる。
夏の終わりは、まるで我が子が少年から大人になるような一抹の寂しさを覚える。


と同時に恋しくなってくるのが稲川淳二の怪談だ。
ネット全盛期の時代で怪談というコンテンツ自体が存在し辛くなっている中、未だに第一線で活躍し続けている。僕自身、彼の話を小さい時から聴いてきて魅了され続けている中の一人なのだが、怪談そのものが好きかというと首を捻ってしまう。彼の語る怪談だからこそ聴いていたいし、怪談というコンテンツにも興味を惹かれるんだと思う。彼の語りありきで怪談が成立する、そういっても差し支えないほどだ。

そんな稲川淳二という人間、彼の語りに一体なぜそんなにも魅了されてしまうのか。先日放送された怪談グランプリを元に改めて考えてみた。

まずいきなり本題から逸れるが、この怪談グランプリという番組が僕は嫌いだ。内容としては全国の凄腕怪談師が集まってその点数を競うというものだが、まずそれが違うだろうと。怪談というただでさえ受け手の想像力と怖がりたいという気持ちが要求される難しいジャンルを、グランプリという形式にして放送すればウケるだろうという浅はかな考え方、なんの恥ずかしげもなくそれを放送してしまえるという面の皮の厚さに最初見た時はただ溜め息をつくばかりだった。
ちなみに制作は関西テレビなのだが、常々感じていることとして関西テレビ制作の番組はどれもこれもバラエティ番組を見ているような気になる。「こんな感じでやっといたら、めっちゃおもろなるんちゃう」といういかにも軽いノリの痛い関西人気質プロデューサーがつくっているのが眼に浮かぶ。しかも司会はますだおかだの岡田。怖がらせる気全くないでしょうと。
ただ新しいことに挑戦すること自体は間違っていないし好ましいことであるとは思う。特に怪談のような稲川淳二だけでもっているような業界においては。
ただ向かっている方角があまりに見当違いで、挑戦してよくがんばったというレベルではない。例えるなら辛いカレーが苦手な人に対して業務用の砂糖をぶち込んだカレーを出して「これで辛くないでしょう」とドヤ顔してる店主のような。
関西テレビやこの番組の悪口をもっと言おうとすればあと100行ぐらいはいけるが、本題から外れすぎるのでこの辺りにしておく。

怪談業界自体が盛り上がっていないことを差し引いたとしても民放ではこんな番組しか放送されないというのはなんとも情けない話ではあるが、それでもこの番組においてかろうじていいと思えることは、まず第一に稲川淳二が出ているということ。しかし怪談は披露しない。大会審査委員長として怪談が一つ終わるごとにコメントするのみ。だがそれでもいい。元々お茶目な、人のいいおじさんであったが、最近ではそれに磨きをかけてすっかり好々爺が板についている。持ちギャグとなった「帰れお前はっ!」を最初に必ずかましてきたり、それぞれの怪談に対するコメントも優しい。この立ち位置だからこそ引き立つ稲川淳二のかわいらしさというのはあると思う。そして後述するが、そういった人柄の部分は怪談において重要な位置を占める。

もう一ついいところとして、様々な語り部が集まること。「怪談といえば稲川淳二」と誰もが頷く状況は他に誰も怪談を語れる人がいないということでもある。そんな中毎回多くの語り部を参加させて怪談業界を盛り上げようとしている姿勢は好感がもてる。とはいえほとんどの人が滑っているのではあるが、その人たちと稲川淳二を比較することで彼のよさが鮮明になってきた。

今回北海道代表や仮面女子に顕著だったのが肩の力を入れすぎてる感。
怖がらせようとがんばってるのはわかるし、すごく練習してきたのもわかる。ただ、この人達に限らないのだが最初から変につくった怖い調子で語ってしまうと嘘臭く感じてしまう。怪談はどれだけリアリティを聞き手に感じてもらえるかが勝負な訳で、最初に聞き手にフィクション認定されると後半どれだけ喚いたり動きを大きくしたりして怖がらせようとしても滑稽にしか映らない。
稲川淳二や今回のありがとうのあみぃを聴いてもらうとわかるが「ゆっくりでつくった声」を要所以外では一切していないのがわかる。むしろ早口で普段の調子に近い声で基本は話しており、それが僕らに現実感を与え「もしかしたら本当に起こりうるかもしれない」と思わせてしまう。

稲川怪談において重要な位置を占めるのが擬音だ。使えば怖くなるという訳ではないのだが、場面を想起させるために効果的であり、また怪談のアクセントとともなる。擬音を取り入れてる人もいるが多くは話しているトーンと同じになってしまって効果的でない。稲川淳二の擬音は一見すると過剰であるがそれぐらいで丁度いいのだと思う。ただ皆がそれをやろうとするとパクったと非難を浴びてしまうのでやりづらいだろうが。ちなみにyoutubeのコメントなんかで「擬音が古くて現実的でない」といったものがある。確かに「トゥルルルルル」と鳴る電話は今あまりないだろうが、現実に即しているかどうかよりも皆がそれを電話と想起できるか、またアクセントととして機能できるか(ちょっとした驚きを聞き手に提供できるか)がポイントであるのでそういった批判は的外れだ。

語りとは別の部分になるが、顔というのも怪談においては重要な位置を占める。もし稲川淳二の顔が笑福亭鶴瓶であったら正直ここまで怪談で有名になることはなく、デザイナーとしての道を進んでいっていたことだろう。
ホラー顔と呼ばれるような目鼻立ちがくっきりとした顔立ち、それが語りに説得力を増している。のっぺり顔はどうも緊張感がでない。もちろん三木大雲や伊集院光といった薄い顔立ちでも怖い怪談ができる人はいるが話術が卓越しているからこそだと思う。

また、稲川淳二の怪談を聴いているとたまに僕は笑ってしまうことがある。稲川淳二の怪談に限らず、ホラー映画なんかでも笑ってしまうことがある。以前シャマランの映画ヴィジットを観た時なんかは爆笑だった。ヴィジットに関しては意図的に笑いに寄せている部分は多くあるのだが、怖さとおかしみは実は表裏一体のものだと思う。同じ異様な対象を前に近くで感じるか遠くで感じるかによって出力される感情が怖さにもおかしみにもなる。いいホラー映画や怪談には怖さとともにおかしみが同居している。

つらつらと述べてきたが、怪談において最も重要なもの、それは前述したように人柄である。繰り返すが怪談は聞き手の能動的な態度が求められる成立させるのが難しいコンテンツだ。聞き手が想像力と怖がりたいという気持ちを働かせなければ楽しむことはできない。語りの間や擬音を重要な要素として挙げたが、そういったものは「この人の話をちゃんと聞こう」という気持ちが起きなければ結局生きない。
以前稲川淳二の怪談ライブに足を運んだ際に僕は舞台からだいぶ離れた上段の隅の席だった。怪談が終わって彼が去る時に観客に対してかなり手を振っていたのだが僕が座っていた隅の上段まで満面の笑みで手を振ってきたのだ。僕は親しい人に対しても気恥ずかしさから長らく手を振る動作はしてこなかったが、その時ばかりは彼に対し手を振り返さずにはいられなかった。つまりはそういうことなのだろう。


最後に、稲川怪談をしっかり聴いて怖がるのは正当な楽しみ方だが、眠れない夜に枕元で聞き流すのも実はおすすめである。お試しあれ。