君の名は。-希代の童貞、新海誠の真骨頂-

amazonプライム等の映画見放題のサービスを利用し始めてからはそのあまりの快適さにTSUTAYAに行くことがなくなっていた。
今後もTSUTAYAで映画をレンタルすることは無いだろうと思っていた矢先に更新ハガキが届き、特典として新作含めてどれでも一本レンタル無料とのこと。
いずれの動画見放題サービスでも新作は有料となるのがほとんどなので、この機会に久々に足を運んだ。

目当ては、君の名は。ラ・ラ・ランド。いずれもヒットしていて気になってはいたものの、映画館へ行くのが億劫でズルズル行くのを延期していたらいつの間にか公開終了してしまった。
TSUTAYAでどちらにするか迷ったが、君の名は。を選んだ。どちらも一定以上の面白さは保証されているのは間違いなかったので、決め手になったのは監督だった。
ラ・ラ・ランドの監督の前作セッション。登場したスキンヘッドの鬼教師の清々しいまでのクズっぷりが一番印象に残っているが、その他各登場人物の微妙な感情の表し方なんかもうまいし、何よりテンポがよくてスカッとする。若い監督なのに堂々とした映画の風格に感心していた。そんな若手有望監督の二作目をチェックする今回は絶好の機会であるはずだったが、それを上回ったのが君の名は。の監督、新海誠だった。

新海誠の作品は今まで一度も見たことがなくその人となりも全く知らず、ただラブストーリーを今までずっとつくり続けている人、そんな程度の知識しかもっていなかった。そんなある時新海誠の顔写真を見ることがあった。僕がその時受けた衝撃は村上春樹の顔を初めて見た時の衝撃を凌駕した。

いじめられっ子、オタク、童貞等々そんなネガティヴなイメージが次々と湧いてくる。しかしまさにその人がラブストーリーをずっとつくり続けているという事実。さらには最新作の君の名は。が大ヒットしたということも相まって、僕は彼に興味を惹かれずにいられなくなってしまった。

観てわかったのは、新海誠、彼は根っからの童貞だということだ。しかしこれは前述した悪い意味で言ってるわけでない。やったやっていないの次元を超えた童貞なのである。

若い男にとって「童貞であるかどうか」はかなり重要な問題だ。童貞であることは恥ずべきことでみっともないことであるとされている。あの三島由紀夫も童貞は百害あって一利なしとして一刻も早く喪失すべきだといっている。僕も概ね賛成である。中学生が内輪ネタで盛り上がるのがいい例なのだが、多くの童貞はやることなすことが寒くて痛々しい。周りのことを考えられないからだ。

ではやることによってそれが変わるのかというと、それは違うと思う。
強姦を除いて、素人の女とやるためには自分本位では絶対にいけない。相手の気持ちを考えるのは当然だがその上で気持ちを揺さぶる等の戦略もなければならない。つまり大局観が必要なのだ。それで初めて目標に達することができる。
だから童貞を喪失したから男として一先ずOKという訳でなく、童貞を卒業するという結果までもっていけたということ自体が既にその男がいわゆるいい男への一歩を踏み出せたということなのだ。
そのため素人童貞は生粋の童貞よりも拗らせている。自分は女を知っているという自意識は人一倍あるが、実際には女からは愛情を感じることなく刹那的な快楽を得る日々というギャップがおそらくそうさせるのだろう。
快楽を得たいだけであれば自分の手で充分なのだ。愛がなければセックスはつまらない。

話が少しそれてしまった。まとめると童貞でないことは男として大事なバロメーターである。それは大前提の上で言いたいのは、やったやっていないの童貞とは別次元の童貞というのがあるということだ。
それはいつの間にか忘れてしまう気持ちを持ち続けられる人のことである。

その気持ちを明確に言語化することが中々難しいのだが、あえて言わせてもらうと「実現しえたかもしれない異性との交わりに対する憧れ」の気持ち、原初的な恋心、といったところか。


あの時あの人と
隣の席だったら
声をかけていれば
話しかけていれば
手をつないでいれば
あなたと僕は


今、僕はシラフでありいい歳でもあるのだが、君の名は。を観終わった今、どうしてもそういった気持ちが呼び起こされ発せずにはいられなくなってしまっている。

新海誠を希代の童貞と評したのはまさにその部分であって、本来は大人になるにつれて忘れてしまう、あるいは無かったことにされてしまう儚い感情、それを密やかに持ち続け、向き合い、育て、ついにはアニメーションという舞台で見事昇華させてしまった。
それを観た僕らは恥ずかしくて思わず照れ笑いが出てしまうのと同時に、胸がキュッとなる。多かれ少なかれ持っていた原初的な恋心が否が応にも呼び起これてしまうのだ。


またいつか、新海誠の顔写真を見てみようと思う。きっと男前にみえることだろう。