夏の終わりに-稲川淳二と怪談-

夏がもうすぐ終わる。

うだるような暑さは相変わらず続いている中で仄かに涼しさが感じられ、学校生活に戻る子供たちがちらほら出てくる。
夏の終わりは、まるで我が子が少年から大人になるような一抹の寂しさを覚える。


と同時に恋しくなってくるのが稲川淳二の怪談だ。
ネット全盛期の時代で怪談というコンテンツ自体が存在し辛くなっている中、未だに第一線で活躍し続けている。僕自身、彼の話を小さい時から聴いてきて魅了され続けている中の一人なのだが、怪談そのものが好きかというと首を捻ってしまう。彼の語る怪談だからこそ聴いていたいし、怪談というコンテンツにも興味を惹かれるんだと思う。彼の語りありきで怪談が成立する、そういっても差し支えないほどだ。

そんな稲川淳二という人間、彼の語りに一体なぜそんなにも魅了されてしまうのか。先日放送された怪談グランプリを元に改めて考えてみた。

まずいきなり本題から逸れるが、この怪談グランプリという番組が僕は嫌いだ。内容としては全国の凄腕怪談師が集まってその点数を競うというものだが、まずそれが違うだろうと。怪談というただでさえ受け手の想像力と怖がりたいという気持ちが要求される難しいジャンルを、グランプリという形式にして放送すればウケるだろうという浅はかな考え方、なんの恥ずかしげもなくそれを放送してしまえるという面の皮の厚さに最初見た時はただ溜め息をつくばかりだった。
ちなみに制作は関西テレビなのだが、常々感じていることとして関西テレビ制作の番組はどれもこれもバラエティ番組を見ているような気になる。「こんな感じでやっといたら、めっちゃおもろなるんちゃう」といういかにも軽いノリの痛い関西人気質プロデューサーがつくっているのが眼に浮かぶ。しかも司会はますだおかだの岡田。怖がらせる気全くないでしょうと。
ただ新しいことに挑戦すること自体は間違っていないし好ましいことであるとは思う。特に怪談のような稲川淳二だけでもっているような業界においては。
ただ向かっている方角があまりに見当違いで、挑戦してよくがんばったというレベルではない。例えるなら辛いカレーが苦手な人に対して業務用の砂糖をぶち込んだカレーを出して「これで辛くないでしょう」とドヤ顔してる店主のような。
関西テレビやこの番組の悪口をもっと言おうとすればあと100行ぐらいはいけるが、本題から外れすぎるのでこの辺りにしておく。

怪談業界自体が盛り上がっていないことを差し引いたとしても民放ではこんな番組しか放送されないというのはなんとも情けない話ではあるが、それでもこの番組においてかろうじていいと思えることは、まず第一に稲川淳二が出ているということ。しかし怪談は披露しない。大会審査委員長として怪談が一つ終わるごとにコメントするのみ。だがそれでもいい。元々お茶目な、人のいいおじさんであったが、最近ではそれに磨きをかけてすっかり好々爺が板についている。持ちギャグとなった「帰れお前はっ!」を最初に必ずかましてきたり、それぞれの怪談に対するコメントも優しい。この立ち位置だからこそ引き立つ稲川淳二のかわいらしさというのはあると思う。そして後述するが、そういった人柄の部分は怪談において重要な位置を占める。

もう一ついいところとして、様々な語り部が集まること。「怪談といえば稲川淳二」と誰もが頷く状況は他に誰も怪談を語れる人がいないということでもある。そんな中毎回多くの語り部を参加させて怪談業界を盛り上げようとしている姿勢は好感がもてる。とはいえほとんどの人が滑っているのではあるが、その人たちと稲川淳二を比較することで彼のよさが鮮明になってきた。

今回北海道代表や仮面女子に顕著だったのが肩の力を入れすぎてる感。
怖がらせようとがんばってるのはわかるし、すごく練習してきたのもわかる。ただ、この人達に限らないのだが最初から変につくった怖い調子で語ってしまうと嘘臭く感じてしまう。怪談はどれだけリアリティを聞き手に感じてもらえるかが勝負な訳で、最初に聞き手にフィクション認定されると後半どれだけ喚いたり動きを大きくしたりして怖がらせようとしても滑稽にしか映らない。
稲川淳二や今回のありがとうのあみぃを聴いてもらうとわかるが「ゆっくりでつくった声」を要所以外では一切していないのがわかる。むしろ早口で普段の調子に近い声で基本は話しており、それが僕らに現実感を与え「もしかしたら本当に起こりうるかもしれない」と思わせてしまう。

稲川怪談において重要な位置を占めるのが擬音だ。使えば怖くなるという訳ではないのだが、場面を想起させるために効果的であり、また怪談のアクセントとともなる。擬音を取り入れてる人もいるが多くは話しているトーンと同じになってしまって効果的でない。稲川淳二の擬音は一見すると過剰であるがそれぐらいで丁度いいのだと思う。ただ皆がそれをやろうとするとパクったと非難を浴びてしまうのでやりづらいだろうが。ちなみにyoutubeのコメントなんかで「擬音が古くて現実的でない」といったものがある。確かに「トゥルルルルル」と鳴る電話は今あまりないだろうが、現実に即しているかどうかよりも皆がそれを電話と想起できるか、またアクセントととして機能できるか(ちょっとした驚きを聞き手に提供できるか)がポイントであるのでそういった批判は的外れだ。

語りとは別の部分になるが、顔というのも怪談においては重要な位置を占める。もし稲川淳二の顔が笑福亭鶴瓶であったら正直ここまで怪談で有名になることはなく、デザイナーとしての道を進んでいっていたことだろう。
ホラー顔と呼ばれるような目鼻立ちがくっきりとした顔立ち、それが語りに説得力を増している。のっぺり顔はどうも緊張感がでない。もちろん三木大雲や伊集院光といった薄い顔立ちでも怖い怪談ができる人はいるが話術が卓越しているからこそだと思う。

また、稲川淳二の怪談を聴いているとたまに僕は笑ってしまうことがある。稲川淳二の怪談に限らず、ホラー映画なんかでも笑ってしまうことがある。以前シャマランの映画ヴィジットを観た時なんかは爆笑だった。ヴィジットに関しては意図的に笑いに寄せている部分は多くあるのだが、怖さとおかしみは実は表裏一体のものだと思う。同じ異様な対象を前に近くで感じるか遠くで感じるかによって出力される感情が怖さにもおかしみにもなる。いいホラー映画や怪談には怖さとともにおかしみが同居している。

つらつらと述べてきたが、怪談において最も重要なもの、それは前述したように人柄である。繰り返すが怪談は聞き手の能動的な態度が求められる成立させるのが難しいコンテンツだ。聞き手が想像力と怖がりたいという気持ちを働かせなければ楽しむことはできない。語りの間や擬音を重要な要素として挙げたが、そういったものは「この人の話をちゃんと聞こう」という気持ちが起きなければ結局生きない。
以前稲川淳二の怪談ライブに足を運んだ際に僕は舞台からだいぶ離れた上段の隅の席だった。怪談が終わって彼が去る時に観客に対してかなり手を振っていたのだが僕が座っていた隅の上段まで満面の笑みで手を振ってきたのだ。僕は親しい人に対しても気恥ずかしさから長らく手を振る動作はしてこなかったが、その時ばかりは彼に対し手を振り返さずにはいられなかった。つまりはそういうことなのだろう。


最後に、稲川怪談をしっかり聴いて怖がるのは正当な楽しみ方だが、眠れない夜に枕元で聞き流すのも実はおすすめである。お試しあれ。

君の名は。-希代の童貞、新海誠の真骨頂-

amazonプライム等の映画見放題のサービスを利用し始めてからはそのあまりの快適さにTSUTAYAに行くことがなくなっていた。
今後もTSUTAYAで映画をレンタルすることは無いだろうと思っていた矢先に更新ハガキが届き、特典として新作含めてどれでも一本レンタル無料とのこと。
いずれの動画見放題サービスでも新作は有料となるのがほとんどなので、この機会に久々に足を運んだ。

目当ては、君の名は。ラ・ラ・ランド。いずれもヒットしていて気になってはいたものの、映画館へ行くのが億劫でズルズル行くのを延期していたらいつの間にか公開終了してしまった。
TSUTAYAでどちらにするか迷ったが、君の名は。を選んだ。どちらも一定以上の面白さは保証されているのは間違いなかったので、決め手になったのは監督だった。
ラ・ラ・ランドの監督の前作セッション。登場したスキンヘッドの鬼教師の清々しいまでのクズっぷりが一番印象に残っているが、その他各登場人物の微妙な感情の表し方なんかもうまいし、何よりテンポがよくてスカッとする。若い監督なのに堂々とした映画の風格に感心していた。そんな若手有望監督の二作目をチェックする今回は絶好の機会であるはずだったが、それを上回ったのが君の名は。の監督、新海誠だった。

新海誠の作品は今まで一度も見たことがなくその人となりも全く知らず、ただラブストーリーを今までずっとつくり続けている人、そんな程度の知識しかもっていなかった。そんなある時新海誠の顔写真を見ることがあった。僕がその時受けた衝撃は村上春樹の顔を初めて見た時の衝撃を凌駕した。

いじめられっ子、オタク、童貞等々そんなネガティヴなイメージが次々と湧いてくる。しかしまさにその人がラブストーリーをずっとつくり続けているという事実。さらには最新作の君の名は。が大ヒットしたということも相まって、僕は彼に興味を惹かれずにいられなくなってしまった。

観てわかったのは、新海誠、彼は根っからの童貞だということだ。しかしこれは前述した悪い意味で言ってるわけでない。やったやっていないの次元を超えた童貞なのである。

若い男にとって「童貞であるかどうか」はかなり重要な問題だ。童貞であることは恥ずべきことでみっともないことであるとされている。あの三島由紀夫も童貞は百害あって一利なしとして一刻も早く喪失すべきだといっている。僕も概ね賛成である。中学生が内輪ネタで盛り上がるのがいい例なのだが、多くの童貞はやることなすことが寒くて痛々しい。周りのことを考えられないからだ。

ではやることによってそれが変わるのかというと、それは違うと思う。
強姦を除いて、素人の女とやるためには自分本位では絶対にいけない。相手の気持ちを考えるのは当然だがその上で気持ちを揺さぶる等の戦略もなければならない。つまり大局観が必要なのだ。それで初めて目標に達することができる。
だから童貞を喪失したから男として一先ずOKという訳でなく、童貞を卒業するという結果までもっていけたということ自体が既にその男がいわゆるいい男への一歩を踏み出せたということなのだ。
そのため素人童貞は生粋の童貞よりも拗らせている。自分は女を知っているという自意識は人一倍あるが、実際には女からは愛情を感じることなく刹那的な快楽を得る日々というギャップがおそらくそうさせるのだろう。
快楽を得たいだけであれば自分の手で充分なのだ。愛がなければセックスはつまらない。

話が少しそれてしまった。まとめると童貞でないことは男として大事なバロメーターである。それは大前提の上で言いたいのは、やったやっていないの童貞とは別次元の童貞というのがあるということだ。
それはいつの間にか忘れてしまう気持ちを持ち続けられる人のことである。

その気持ちを明確に言語化することが中々難しいのだが、あえて言わせてもらうと「実現しえたかもしれない異性との交わりに対する憧れ」の気持ち、原初的な恋心、といったところか。


あの時あの人と
隣の席だったら
声をかけていれば
話しかけていれば
手をつないでいれば
あなたと僕は


今、僕はシラフでありいい歳でもあるのだが、君の名は。を観終わった今、どうしてもそういった気持ちが呼び起こされ発せずにはいられなくなってしまっている。

新海誠を希代の童貞と評したのはまさにその部分であって、本来は大人になるにつれて忘れてしまう、あるいは無かったことにされてしまう儚い感情、それを密やかに持ち続け、向き合い、育て、ついにはアニメーションという舞台で見事昇華させてしまった。
それを観た僕らは恥ずかしくて思わず照れ笑いが出てしまうのと同時に、胸がキュッとなる。多かれ少なかれ持っていた原初的な恋心が否が応にも呼び起これてしまうのだ。


またいつか、新海誠の顔写真を見てみようと思う。きっと男前にみえることだろう。

口一杯に素麺を入れた時の食感はムワッムワッ

久しぶりに素麺を食べた。
これがなんとまあうまい。

小さい頃、夏休みに素麺が食卓に現れるのが嫌で嫌でしょうがなかった。何度も現れるからというのではなく当時の僕にとっては素麺の味があまりに素っ気なく感じられつまらなく、義務感で口に運んでいた。

そこに楽しみは見出せなかったので早く食べ終わろうと口一杯に素麺を放り込むことが多かった。その時に何度も体験した食感を今日思い出した。
ムワッムワッだ。おそらく素麺以外にこの食感はないのではないだろうか。久々の対面に思わず頬がほころぶ。

そして食感以外の素麺のよさが今はわかる。
まずはその真っ白な色だ。白いTシャツ同様、夏によく似合う。ただ器が白いと素麺の白さが映えないので器は違う色、できれば濃紺がいい。僕は白い器しかなかったのでトマトやオクラといった夏野菜を添えることで鮮やかな白を際立たせることができた。添え物があることで華やぎ一層美味そうにみえる。

めんつゆは冷蔵庫に常備していた2倍濃縮のものをつかった。親子丼などの和物に入れてやることでずっと美味くなるのでメインの調味料の一つだ。だが「めんつゆ」と呼ばれるように本来は麺のためのつゆと大きな役所だったのに他の料理の調味料に成り下がらせてしまっていたことに気づき、少々申し訳ないと思った。
今日はたっぷり、めん(のための)つゆとして使ってやるかと思って多めに注ごうとしたが、結局使い切れず流しに行くめんつゆのことを考えて相応の量にすることにした。

茹で上がった素麺をザルに移し湯を切る。用意した氷水に入れる。なんとも涼しいひと時でこのまま食卓へ運びたくなるが以下に習い、素麺だけをザルに戻し再び水を切る。

氷水に浸したままだと素麺が素っ気なくなってしまうとのこと。(そういえば小さい頃の素麺は氷水で浸されたままだった気がする)

夏野菜とともに綺麗に盛られた素麺は嫌が応にも食欲がわく。めんつゆにつけて一気にすする。冒頭に述べたようにこれがなんとまあうまい。特に喉越し。うどんも真っ白だが夏に食べたいと思ったことがない。この素麺の喉越しにはどうやっても叶わないのだから。素麺が夏の食べ物である所以を再確認した次第であった。

ただそれは裏を返せば夏以外に素麺は食べられないということでもある。素麺を出している店がないのがいい例である。
噂では20年後には手延べ素麺の職人がいなくなるとのこと、警鐘を鳴らすのはソーメン二郎

名前はかなりふざけているが三大素麺・三輪素麺の家系らしく、素麺業界を盛り上げようと奮闘中らしい。
確かな家系でありそれなりに想いもありまた行動力もありそうなので名前を除けば信頼できる人かと思う。

そもそもなぜ機械ではダメなのか。
http://ww81.tiki.ne.jp/~shiomi/tesagyou.html
伸ばす時間の長さだったり、塩加減だったりらしい。


素麺あれやこれや調べるのも飽きたので、片付けをしに台所へ向かった。鍋には素麺の茹で汁がまだ残っていた。
指を差し入れ、その指の先を口にいれる。
滑りと塩をほんのりと感じた。

ミニマリストVSアンチミニマリスト

ここ数ヶ月ほど毎日同じ服ばかり着ている。白いTシャツだ。特に夏と白いシャツの相性はよく毎日気持ちよく過ごせている。

なぜ同じ服なのか。
同じ服を着ていると言うと皆怪訝な顔をする。(もちろん複数枚持っていて洗濯をしているというのは大前提で)

だが僕から言わせると
なぜ違う服でないとだめなのか。
数ヶ月前にふと思いたってそれからはマイナーチェンジはあるものの基本的に白のTシャツにジーンズだ。
服選びが嫌いという訳ではなかった。むしろ好きだった。故に飽きてしまった。
ピークが学生時代でそれからはテンションが下降線を描きシンプルな服装になった。普通の人ならそこで大体留まるのであろうが、僕の場合はさらに下降を続け現在に至る。

ネットで検索すると毎日同じ服を着ることを肯定的に捉えている人が案外いると知って、前にも増し白いシャツを気持ちよく着られるようになった。

で、毎日同じ服を着ることを含め生活一般において必要最低限のものしか持たない人達のことをミニマリストと呼ぶらしい。メンタリストではなくミニマリスト

ネット検索している中でそのミニマリストの代表者のような人のブログとミニマリストに嫌悪感を抱く人のブログが並んでいた。比較してみると中々面白かったので勝手ながら我がブログにおいて第一回ミニマリストVSアンチミニマリストを開催したいと思う。

選手入場

ミニマリスト

アンチミニマリスト

はっけいよい、残った


まずはミニマリスト代表のブログから見ていこう。
パッと見て感じるのは「無印感」だ。
こざっぱりとしてオシャレ、おそらく本人もかなり意識しているのだろう。
白が基調の整然としたデザインに無駄のない文章でミニマリストは何かというのをわかりやすく伝えている。

<元々ファッションが好きでコーディネートも色々していたけど結局お気に入りの服しかきていないのではないか>という気づきは確かにそうだと思わせられる。

そして<私服の制服化により毎日が快適に過ごせる>といのもすごくよくわかる。

概ね理解できるのだが唯一、<量よりも質で一着に多くのお金をかけられる>というのが
賛同しかねる。
僕は服は消耗品だと思っているので、いかに安く仕入れてワンシーズン着回せるかのかが大事で、何年も同じものを着ようとは思わない。まあこれはミニマリスト云々というよりかは服に対する価値観の違いなのでどうでもいいとえばどうでもいいが。

とまあ自称ミニマリスト代表(本当にプロフィールにそう書いてあった)だけあって、完成度の高い記事であった。ただ僕はこの記事を読み進めていくうちに、なるほどと思うのと同時に何か形容し得ない思いが生じていくのを確かに感じた。これは後述する。


さて続いてアンチミニマリスト代表のブログだ。
先ほどのミニマリストのブログと絵に描いたように対照的だから面白い。

第一声が
<あー、どうもみなさんこんばんちわっす。>
嫌な予感がした。

やたらと改行をする。やたらと文字を大きくする。いずれも面白くないブログに共通する点である。僕が推測するに自分の書いていることに自信がないのだと思う。それを見透かされないようにと大量の改行や文字の大きさでカバーしようとするのではないかと。
まあそれが当たってるかはともかく内容が面白ければよい。しかし僕の嫌な予感は見事に的中してしてしまった。

まずどうでもいい日焼けの話から始まり、ミニマリストの定義の話に移る。
<ミニマリストって結局キレイ好きってことなんじゃね?>といういかにも鬼の首を取ったような様が鼻につきつつ読み進めいくと
本題の服の数を減らす話に移る。

どうも彼はミニマリストの主張する「服の数を減らすことで決断疲れを減らす」ことに対して強い違和感を抱いているようだ。

気持ちはわからなくない。
僕も同じ服を着ていて決断疲れを減らせているという実感は全くなかった。ただ今はミニマリストのブログをはじめとした様々なwebサイトを閲覧し自分の生活を振り返った結果、以前より自分が自分らしくなったと感じる。同じ服を毎日着ることにより、毎日のコーディネートを考える必要がなくなるというのはわかりやすいメリットではあるが、それだけでなく服の購入においてもあれこれ悩む必要がないし(僕の場合はそもそも同じ服をまとめ買いするので服の購入機会自体があまりないが)他の人が着ている服と比べて妙な劣等感を感じることもなくなる。
服全般において煩わしいことがなくなるというのが、実際に同じ服を着て感じる大きなメリットだ。
ただそれが決断疲れに貢献するという大袈裟な言い方になってしまっていること、加えてスティーブ・ジョブズも毎日同じ服を着ていたという主張も相まって「けっ、なにがミニマリストだこの野郎」と思ってしまうのは確かにわかる。
わかるが、このアンチミニマリストの彼の相変わらずの鬼の首を取ったような騒ぎっぷりにイラっとくるのはおそらく僕だけではないだろう。

極め付けは
<その思考、メッチャダサくないっすか?>
<ただ、メンドクセーってだけだろっ>
<こいつマジダイジョーブかよっ>

僕は頭の悪い人間そのものに罪はないと思うが、自分の頭の悪さを自覚せず浅はかな考えを他者に押し付けようとする人間は大罪であると思う。
よくもまあこれだけブログという公衆の面前で醜態を晒せたものである。本人としては「みんなが思っているけど、言っちゃダメなことを見事に言ってやったぜ」と思っているのだろうが、考えも言動もあまりにも稚拙で、ただの痛い人になってしまっているのは知る由も無いだろう。
呆気にとられたのが、散々言った最後に
<ま、ここまで書いといてアレですが、別に僕ミニマリスト自体を否定してるわけじゃないです。全然。>
という日和っぷり。
「その言動、メッチャダサくないっすか?」この言葉を彼に贈りたい。

現時点でミニマリストVSアンチミニマリストの対決は圧倒的にミニマリスト優勢である。
が、前述したように僕はそれでもミニマリストの彼のブログから感じる形容しがたいものを拭うことができない。そしてそれはおそらくアンチミニマリストの彼がミニマリストから感じることとも共通するものでもあるだろう。

もう一度ミニマリストのブログを見返した。
なんか気持ち悪い。
申し訳ないが本当にそう思う。
おそらくというか間違いなくその大きな原因となっているのはミニマリストである自分を写したナルシスティックな写真の数々である。たぶん彼としては自分をミニマリストタレントとして売り出していこうとしているのだろう、それでこういった写真を載せているというのはわかる。
わかるのだが、顔がギリギリ不細工で「お前、なにしてんの」感が否めず、どうしても鼻についてしまう。
また、僕は男の自撮りが本当に気持ち悪く、あまつさえ自分のブログに貼ってしまう行為に対してどうかしてるんじゃないかとも思う。(最後のシャボン玉を吹く写真には辟易させられた。)
よかったと思えた文章もなんだか変に自己肯定した、品はあるが程度はアンチミニマリストと変わらない代物にも見えてくる。

ミニマリストが必ずしもナルシストに繋がるわけではないのだろうが、どうしてもその性質上ともすると貧乏くさいイメージをもたれてしまう危険性がありそれを払拭せんとするあまり、今回の彼のような過剰なセルフプロデュースに繋がり滑稽に映ってしまうという新たな危険性は間違いなくはらんでいると思う。

 

というわけで
第一回ミニマリストVSアンチミニマリスト
結果は残念ながらどちらも負けとする。

久々に笑った映画-宇宙人ポール-

fire購入の際にamazonプライムにも加入するとfire料金が割引されるということで、数ヶ月前に加入したamazonプライム

旧作なら大体観れるし、割と新しいものでも時期が合えば観れるという代物でなかなか楽しませてもらっていた。(そういえばTSUTAYAに行くことも全然なくなった)

とまあ映画好きにはたまらないサービスなのだが、ここ最近映画以外のことにハマっていたというのもあり全然観ていなかった。(たまにプラネットアースを夜寝転がりながら観たりはしていた。心地よく眠れる。プラネタリウムと同じ効果なんでしょう。)

もっというと映画に飽きたというのがある。
学生時代はTSUTAYAに行って映画を借り飯を食い寝るという生活をほぼ毎日繰り返していた。
本当に映画が好きで、漠然と映画監督や俳優になりたいという夢も思い描いていた。

社会人として生きていて行く中で愛想笑いがすっかり板についた現在、もちろんそんな夢はとっくに消え去ったが映画を好きという気持ちは無くなることはないだろうと思っていた。

しかし今、現実に映画に飽きて積極的にみようという気持ちは起こらない。ここで考えられる映画のマイナスポイントを挙げてみる。

・長い
・展開が大体決まっている
・観たからといって特に得るものがない

こんなところだろうか。
うん、それは飽きるだろう。

太宰治の随筆を読んだとき「映画をよく見る人間は心が弱っている」とあってずっとひっかかっていたのだが、なるほど2時間もの間展開が大体決まっていて観たからといって特に得るものがないものを見続ける人間は心が弱っているといって差し支えないだろう。
学生時代の僕はまさしくそうだった。

とまあ長々と映画をディスってきたそんな僕が最近観た中で胸を張ってよかったと言える
映画がようやく本題の「宇宙人ポール」である。

この映画全然評判知らない人にとってまず眼中に入らないであろう。有名な俳優も出ていなければ(主人公の一人は一応ミッションインポッシブルの知能担当と思われる)、まあ子供ウケ女ウケしないであろう絵に描いたようななおかつエグみのある宇宙人がジャケットでにでかでかと登場している。
僕も正直amazonのレビューがなければ視聴ボタンを押すことはなかっただろう。

ところがどっこい蓋を開けて見るとこれがなんとまあ大人な映画。
随所に笑いが散りばめられたコメディでレゴムービーや曇り時々ミートボールをもっとソフトにした感じというか。でもその塩梅が僕にとっては心地よくて。
そしてネタ元。過去の宇宙関連の映画ネタがこれでもかと敷き詰められている。このあたりなんかも気が利いてるじゃないですの。最後の男が本名を言うところで主人公たちが驚くいた反応がわからなくて調べたけどイマイチしっくりこなかったっていうのはあるが。

これから見返すのはマッドマックスぐらいかなと思っていたけど、この宇宙人ポールも3〜5年に一回ぐらい見返したいと思う。

高校球児はなぜ一塁へのヘッドスライディングをしたがるのか

高校野球開幕。

 

ものすごくファンというわけではないが、テレビでやっているとついつい観てしまう。
本当に暑いなかご苦労様である。

毎年思っていることなのだがあの高校球児の一塁へのヘッドスライディングはなんなのか。どうしても違和感がある。

というのも本当にセーフになりたくてやっているからというよりは、いかにかっこよく負けるかだけを思ってやってるとしか考えられないからだ。

ググってみると知恵袋などに元高校球児の投稿があり「気持ちが前に出てついやってしまう」とあった。

本当に気持ちがあるならヘッドスライディングよりもセーフになる確率の高い駆け抜けの方をやるでしょう。とにかく最終回2アウトの一塁へのヘッドスライディングを見るたびに冷めてしまう。

メディアも悪い。ヘッドスライディングをする高校球児を毎度毎度いかにも格好良いかのごとく映し出すのだから、それまで球遊びしかしてこなかった球児が感化され、自分に酔って芝居がかったマネをするのも無理はない。

そしてその後に続くのは、地べたに這いつくばりべそをかきながらぐちゃぐちゃになった土をかき集めるシーン。
誰が考え、そしてなぜ慣習になったか本当に理解に苦しむ。頑張ってきた球児には申し訳ないが、はっきり言ってみっともないったらありゃしない。3年間頑張った晴れ舞台の最後の姿が本当にそれでいいんですか。胸張って堂々としてりゃいいじゃないの。
ついでに言うと乞食のごとき球児に群がる数多のカメラマン達も相まって、なんだかマニア向けのAV撮影現場にも見えてくる。

とはいえそういう僕にとっては気色の悪い要素もあるおかげで、高校野球は人気で身体能力の高い子も集まるしプロのレベルも向上し続けているんだろうけど。

 

凡人を全うする

僕にとっては記念すべきブログ投稿1回目だが、僕以外の誰にとってもどうでもいいブログ投稿1回目なので寒い挨拶は無しで始めたい。

薄々感づいていたが、ようやく確信を得たことが一つある。自分は凡人であるということである。特筆すべき能力が何一つないのだ。 

各種メディアを通して僕らはあらゆる天才と接する。現代に限らず教科書に登場する数多の人物からも。接しすぎて自分は凡人であるということに気づかなくなる、これが若さというものなのだろうか。

御多分に洩れず若かった自分は自分のことを天才だと本気で思っていた。

が、その頃の僕は凡人が凡人として時間をかけて工夫をして行動をした結果を出しただけであって誰しもが辿り着ける領域であり、凡人の枠をはみ出しているわけではなかったのである。

時が経ち現在。「自分は凡人」という現実がある。しかし重くのしかかっているわけではない。薄々気づいていたということもあり、そのことに特段ショックはなかった。加えて周りの、いや全世界の人間が凡人または凡人以下であるということにも気づいたから。

 

日本には職人信仰がある。一つのことを地道にやり続けていくことが尊ばれている。多芸は無芸と言われるようにあっちにもこっちにも行く人はよく思われない。僕はこれがどうも疑問に思える。もちろん一つのことを極めている人に私は敬意を表すし、憧れもする。

ただ、一つのことを地道に取り組むことで能力を最大化できるのはほんの一つまみの天才のみなのである。

先にも述べたように世の中の大半は凡人または凡人以下であり、一つのことを極めるなど土台無理な話なのだ。

もちろん凡人または凡人以下が一つのことに取り組んである程度の地位名声金を得ることはできるだろうが、他に自分の能力を最大化できる場所があったのではないだろうかと思ってしまう。凡人は選択肢を狭めずに気になったことを

思いきりやることが凡人としての責務を全うすることなんじゃないかと。

 

作詞家になろうとしていた頃、故阿久悠が書いた作詞家になるための本を読んだ。最初の方のページにある作詞家適正テストの結果が「すべて当てはまっている人が作詞家に向いている」だったことに若干憤りを覚えつつ読み進めていくと、うろ覚えだがこんな記述があった。

「自分はテレビ局の社員で様々な仕事を手がけることができたから作詞という仕事に生かせることができた。一つのこと、例えば爪楊枝を削るような仕事をひたすらやり続けていたとしたらヒット曲はうまれなかっただろう」

本当に爪楊枝を削り続ける仕事があってそれをやり続けている人がいるとすればそれはそれですごいとは思うが、それはさておきこの本を読んだ当時は色々やることが大きなことにつながるということが何か妙に印象に残っていた。現在は作詞家を目指してはいないが、自分が凡人と気づいた今しみじみ感じる。(阿久悠は凡人ではなかっただろうが)

 

つらつらと述べてきたが自分が凡人であると気づけた今、なんだか清々しい。

後は開き直ってやりたいことをやるだけである。さあ野となれ山となれ。